常識の探究

常識の探究

令和5年1月14日(日)

 「自分の習慣にないことを野蛮と呼ぶだけの話なのだ。本当にわれわれは、自分の住む国の思想習慣の実際ないし理想のほかには、真理および道理の標準をもっていないようである。」

 これは、高校の世界史の授業で習った仏の思想家モンテーニュの言葉(『随想録』1580)である。この言葉を久しぶりに思い出させる本に出合った。その本は、『6ヵ国転校生 ナージャの発見』(2022)である。

 ソ連(当時)生まれの著者キリーロバ・ナージャさんは、両親の転勤で、露英仏米加日6か国に転勤し、各国での体験からこれまでの「日常」や「常識」を問い直している。その中で、私も共感した考え方があった。それは、「鉛筆」についての記述である。日本の学校では、ほとんどの生徒は、書いた内容をすぐに消し修正できる鉛筆の類を利用していることが多い。彼女によれば、英米加日は鉛筆を使い、露仏ではペンを使っていたということだが、これが彼女にとって不思議でならなかったらしい。彼女の探究の結果は、何度でも消せて書き直せる鉛筆は「よく書くための道具」、一度書いた文字は消せず紙に刻まれるペンは、「よく考えるための道具」である、ということである。

 私がかつて文部科学省教科調査官の任にあった時、5年間かけて、英仏米独4か国の小中学校・高校を継続訪問し、教育課程の調査をしたことがあった(下の写真の年号は訪問年を指す)。確かに、日本ではよく目にする消しゴムを机上に見ることはなかった(英米は、ナージャさんの経験とは異なる)。仏(リセ lycée *仏でいう高校)、独(ギムナジウム Gymnasium *独の大学進学希望者が通う中高一貫校)の生徒が授業中にペンで書いた文字を訂正線で修正している様子を見かけ、「消しゴムは使わないの?」と聞いたことがあった。生徒は、「先生は考える道筋を大切にしなさいと言う。自分の考えの道筋を振り返るようにしておくと、新しいことが発見できるって言うから。でもね、修正ばっかりだから汚くなるの。」と答えた。「じゃあ、消しゴム使ったら、どうなるの?」と問い返したら、それはあり得ないぐらいの勢いで「見つかったら叱られる」と返ってきた。

 学校だけをみても、入学年齢、義務教育期間、教室における机の配置、挙手の仕方、部活動の存在、成績の付け方や大学入試の方法、大学にかかる費用など、各国の様子は全く異なっている。正解とは、これまでの歴史や文化の諸経験から辿り着いた一つの合意形成なのかもしれない。だから、時代とともにそれは変化することもある。歴史を紐解けば、絶対的な価値をもつと考える「いのち」でさえも、その捉え方が変化してきたことに気付く。

「ドイツの生徒たちの授業中の挙手の仕方が日本と違うのはなぜだろう?」

(2015年調査による、現在安城東高校と交流するドイツ・シュトゥットガルト・女王シャルロッテギムナジウム(クリック!)の当時の中学生)

 私たちが今生きている世界が全てでない。これからも、グローバルに、ローカルに、いろんな視点で考える機会を大切にしていきたいと思う。6カ国転校生ナージャさんの本は、そんなことを私に考えさせてくれた。

なお、ナージャさんのこれまでの記録については、コチラ(電通報)を参照(クリック!)

*この文章は、令和4年度安城東高校の国際交流機関誌「ユネスコ国際祭交流」第25号に掲載する原稿を土台に編集しています。

学校長 村瀬 正幸